【宮古民謡】張水ぬクイチャー
宮古の人なら誰でも歌えるなどと言われる「なりやまあやぐ」や「豊年の唄」と並んで、宮古の人なら誰でも踊ることが出来ると言われるのが張水のクイチャーです。
クイチャーについて
クイチャーという言葉は宮古島の方言で、声(クイ)を合わせる(チャー)と言う意味を持つと言われていて、他にも(クイ)には「乞う」とか「来い」などと言う意味も含むとの話もあるようです。
沖縄本島の「カチャーシー」や八重山の「モーヤー」、奄美では「六調」、そして宮古では「クイチャー」、今では宴の終わりに皆で一つになり乱舞する、そんな姿は琉球民謡に触れたことのある方であれば、誰もが目にしたことがあるかと思います。
宮古のクイチャーの起源は定かではないものの、15世紀頃には既にその形はあって、17世紀には首里の王の前で披露していたと文献にはあるそうです。
クイチャーは厳しい自然環境の中暮らしていた宮古の人たちの願い、すなわち神への祈り、「豊作祈願」や「雨乞い」などの儀式が起源だと言われていますが、時代が進むにつれて、もちろん祈りと言う側面を持ちながらも、それは娯楽となり、今の時代に受け継がれているのです。
そんなに遠くない昔の話、食べるものも無く、楽しみと言えば、唄や踊りぐらいしかなかった、琉球の地の芸能は神様とともに人々が作り上げて来たんだよ、との話が肝に染みます。
張水のクイチャー
宮古民謡には、「○○クイチャー」と呼ばれる唄は各集落にあって、その数は100を超えると言われるぐらい幾つものクイチャーがあることを知る方は、宮古民謡をよく知っている方だと思います。
今回紹介する「張水のクイチャー」はクイチャーと言えば、というぐらいに一般的に知られますが、張水のクイチャーは、○○集落の、というルーツを持たないクイチャーだと言う特徴があります。
その唄名から、張水の御嶽のある平良のクイチャーかと私も最初は思いましたが、役人層が多く暮らした平良には、クイチャーが無いそうなのです。
唯一平良地区の中でも庶民が多く暮らした荷川取には「荷川取のクイチャー」があることから、クイチャーは庶民の願いだったことが想像できます。
そして、張水のクイチャーを知る際には、ここでも先島諸島の歴史を語るには外すことの出来ない人頭税の話は避ける事が出来ません。
>>> 人頭税(じんとうぜい にんとうぜい)の話(以前投稿した人頭税の記事です)
明治維新後の様々な改革が行われる中、琉球の地では、これまでの役人層が、特権を、みすみす手放すことを良しとせずに、人頭税廃止という改革を望まず、猛反発したそうです。
そんな中、様々な妨害に合いながらも宮古の代表として城間正安(ぐすくませいあん)氏、中村十作(なかむらじっさく)氏、平良真牛(たいらもうし)氏、西里蒲(にしざとかま)氏らが人頭税廃止を直訴するために、内地へと旅立ち、四名が朗報を持って宮古の張水泊に戻った際には、宮古中の人々が押し寄せたと言います。
その頃は、まだ平良の港は整備されておらず、張水の御嶽のある場所までが海だったそうで、この漲水泊から鏡原馬場(かがみはらばば)までを各集落のクイチャーを持ち寄り歌い踊り練り歩いたのが「張水のクイチャー」の始まりだということです。
琉球処分で今の沖縄の地が日本に合併されたのは明治5年、それから、十数年も経った、明治27年3月のこと、宮古の人々の喜びは今の私達には到底想像できません。
正式に明治政府の帝国議会で可決され交付されたのは、さらに10年近く後、明治36年になってからのことです。
こうして、宮古の各集落のクイチャーが混じり合い出来上がったのですから、やはり張水のクイチャーのルーツは宮古そのもの、宮古の芸能のアイディンティティ、特別なクイチャーだと理解します。
2002年からは人頭税廃止100年を記念して「クイチャーフェスティバル」と言うイベントが毎年開催され、張水のクイチャーはもちろん、各集落のクイチャーから創作クイチャーまでが披露されます。
関西に暮らしていると、彼の地のイベントは、頑張ってもせいぜい年に一度か二度しか参加できませんが、クイチャーフェスティバルもなりやまあやぐ大会などと共に、一度は参加してみたいと思っています。
鏡原馬場は城辺(ぐすくべ)街道の北沿いにあり、あまりにも有名な張水の御嶽からは3キロほどの距離です。人頭税廃止と深い関わりがある場所として人頭税廃止100周年記念碑も置かれます。
宮古民謡らしい美しい旋律で、朗々と歌われる「鏡原馬場あやぐ」という唄の一節にも、この時の喜びが歌われています。
この、鏡原馬場ですが、宮古島は平坦な土地が多く、ハブも居なかった為に、琉球最大の馬の産地だったそうです。
琉球王府の江戸上りの際には、宮古上布と共に宮古馬も献上され、その献上される馬を選ぶ場の一つが鏡原馬場で、残された貴重な場所でもあるとのことです。
張水のクイチャーの歌詞と意味
漲水ぬ 船着ぬ 砂むなぐぬよ ヤイヤヌ
ヨーイマーヌーユー 砂むなぐぬよ粟んななり 米んななり 上ゆりくばよ ヤイヤヌ
ヨーイマーヌーユー 上がりくばよ
張水の船着き場の白い砂が
粟になり米になりあがってくる
島皆ぬ三十原ぬ兄小たやよ ヤイヤヌ
ヨーイマーヌーユー 兄小たやよピラとぅらだ カニヤうさだ ゆからでだらよ ヤイヤヌ
ヨーイマーヌーユー らくすぅでだらよ
島の三十あまりの集落の兄さんたちは
ヘラを取らずにクワも押さずに良くなるよ
大神島后フヂ並び 折波小ぬよ 白波小ぬ ヤイヤヌ
ヨーイマーヌーユー 折波小ぬよ糸んななり かしんななり 上ゆりくばよ ヤイヤヌ
ヨーイマーヌーユー 上がりくばよ
大神島の干瀬に寄せる波が
糸になりかせになり上がってくる
島皆ぬ 三十原ぬ 姉小たやよ ヤイヤヌ
ヨーイマーヌーユー 姉小たやよぶやんうまだ かしやかきだ ゆからでぃだらよ ヤイヤヌ
ヨーイマーヌーユー らくすぅでだらよ
島の三十あまりの集落の姉さんたちは
苧麻を作らなくてもかせを掛けなくてもよくなるよ
今回、歌詞の意味をあちこちで聞いたり読んだりして思いましたが、例えば、
漲水ぬ 船着ぬ 砂むなぐぬよ ヤイヤヌ
ヨーイマーヌーユー 砂むなぐぬよ粟んななり 米んななり 上ゆりくばよ ヤイヤヌ
ヨーイマーヌーユー 上がりくばよ
という部分を見ると
打ち寄せる白い砂浜の砂があわや米だったら良いのに、と、ありえない願いを込めて歌い踊った切ない歌詞としている訳が多いなと思いますが、
266年続いた人頭税が終わる知らせを持って来た訳ですから、ありえないことが今起こっている、と唄った方がしっくり来るんじゃないかなと、私は思ったりしました。
歌いだしの謎
いかにもクイチャーらしい、軽快なリズムで始まる唄持ちの後や一番最後に、短い一節が加える事が多いです。
「かんしゅずきゃーぬ みぃーやーく ニノヨイサッサイ」
「かんきゅーきゃーぬ みぃーやーく ニノヨイサッサイ」
「かんちゅーきゃーどぅ みぃーやーく ニノヨイサッサイ」
手持ちの工工四には載っていないこの歌詞について、いつもお世話になっている先生など、沢山の方の話を聞いている最中です。これからも引き続き色んな人の意見を伺いたいと思っています。
歌詞自体は、文字に起こすのは難しいのは琉球地方の言葉すべての常、「かんしゅずきゃーぬ」「かんきゅーきゃーぬ」「かんちゅーきゃーどぅ」とニュアンスは同じだと思います。
クチはどんどん真似して行けば良いと思っていますが、その言葉の意味となるとやはり本当の部分?が知りたいと思うのです。
国吉源次先生が張水のクイチャーを唄っているのYoutubeがありましたが、テロップに流れる標準語訳には、
「歌って遊んで 私達宮古の世界だ」
とありました。
また、これもまたYoutubeなのですが、人頭税についてのトークの中でクイチャーが取り上げられ
「あんちゅんきゃんの みゃーく=こんなにしている一時が我々の幸せだよ」
という歌い出しも出てきました。
琉球各地の唄を知る上で、良くお世話になる、広島のたるーさんのサイト「たるーの島唄まじめな研究」では、
「こうやっている(唄って踊っている)間の宮古」、
沖縄に暮らす民謡仲間の友人が、ネットで見つけた抜粋だと送ってくれたのが、
「こうして過ごしているときが幸せだ」、
例えば、春先の縁側で、太陽を浴びながら良い季節になったなーと、背伸び。
仕事終わりの乾杯のビールのひと口目。
そんな時の「あぁ~~~幸せ」って感じでしょうか。
「かん しゅず きゃーぬ」
「かん きゅー きゃーぬ」
「かん ちゅー きゃーどぅ」
いずれも、「かん = こう」「しゅゆず = している」「きゃーぬ = 間の」と訳せばなるほどと思うし、奄美大島の方言で「かんしゅんとぅき=こうしているとき」という感じの言葉を話していたことも思い出し、おぼろげながら、歌いだしの意味がイメージ出来た気がします。
三線の弾き方
私が教室で使っている宮絃会の工工四は二揚げですが、三下げで弾く工工四もあるそうです。
宮絃会の工工四は宮古民謡ばかりを集めた工工四なので、三下げの唄は一曲もありません(かつては一曲だけ三下げの唄があったそう)。なので、三下げの工工四はもしかすると本島で採譜された物かも知れません。
一節一節が短く、ほぼ同じ指使いの繰り返しなので、それほど難しくは無いかと思われますが、延々と続く速弾きなので、右手の爪捌きや躍動感がこの唄の肝な部分、
八の音やその店舗の持続とか、初心者の方は苦労する唄であるのは間違い無いかと思います。
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