上り口説(ぬぶいくどぅち)を歩いた
以前から三線な仲間と話していたことがあって、今度沖縄行ったら、名曲「上り口説」で歌われる観音堂から三重城までを歩こうじゃないかと言う計画、
今回の訪沖では、念願叶って、梅雨の合間の那覇の街を、三線な仲間5名で嬉々として歩きました、もちろん、上り口説を口ずさみながら。
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上り口説の歌詞と唄の解説
今回の記事のテーマ 上り口説 と言う唄は、江戸上りの道中の一部、首里から薩摩へ入るまでが歌われています。
歌詞
上り口説の歌詞は以下、沖縄本島で足跡をたどることが出来るのは、一番の歌詞の観音堂から、招く扇の三重城までの六番の歌詞までです。
一:旅の出立ち観音堂 先手観音伏せ拝で黄金尺取て立ち別る
二:袖に降る露押し払ひ 大道松原歩みゆく 行けば八幡 崇元寺
三:美栄地高橋うち渡て 袖を連ねて諸人の 行くも帰るも中之橋
四:沖の側まで親子兄弟 連れて別ゆる旅衣 袖と袖とに露涙
五:船のとも綱疾く解くと 舟子勇みて真帆引けば 風や真艫に午未
六:又も廻り逢ふ御縁とて 招く扇や三重城 残波岬も後に見て
七:伊平屋渡立つ波押し添へて 道の島々見渡せば 七島渡中も灘安く
八:燃ゆる煙や硫黄が島 佐多の岬に走い並で(エーイ) あれに見ゆるは御開聞 富士に見まがふ桜島
こうして見ると、もはや日常会話では使われなくなった古い言葉が少なくないものの、基本的に方言では無いので、意味は理解出来るのでは無いでしょうか?
唄の解説
江戸上りというのは、江戸時代には日本全国の大名に課せられていた参勤交代の沖縄版みたいなもん、って想像するとイメージし易いかと思います。
琉球国王即位の際に派遣される「謝恩使」と幕府将軍襲職祝賀の際に派遣される「慶賀使」とがあって、この使節の往来は1634年から1850年までの間に18回にも及ぶ江戸上りが行われたと言います。
琉球国にとっては、江戸幕府との外交と言う重荷は多分に有ったにせよ、現在、ユネスコの登録遺産にもなっている組踊なども、この江戸上りの際の文化の交流から誕生したと言うことを思えば、かなり有意義なものであったのでは無いでしょうか。
江戸上りの使者になるには、それなりの地位や教養は必須だったと思うので、誰でもと言う訳にはいかなかったでしょう。参加することは、さらなる地位や名誉を手に入れる手段として、多くの者が命がけで参加する価値の在るものだったと言うし、実際に容姿端麗 頭脳明晰な若者が殆どだったそうです。
上り口説の作者は、王朝時代に工工四を創案し活躍した、屋嘉比朝寄が作ったと言われてますが、氏の資料は乏しく、本当の所は良く解っておらず、と言うことらしいです。画像は、その屋嘉比朝寄「工工四」原本の画像です。
舞踊の世界での上り口説は二才踊りと呼ばれる若者が踊る男踊りとしてド定番、大和言葉を使って、内地の節回し、口説と呼ばれる七五調(琉歌は八八八六)で小気味よいテンポで歌い踊られます。
沖縄民謡の世界にも ◯◯口説は沢山あって、三線触ってると口説は聞いたことが必ずあるんじゃないでしょうか。
当時の琉球王国を知ることの出来る面白い話を教えて貰いました。
三線を含む組踊や舞踊などは宮廷音楽として薩摩藩や中国からの使者をもてなす為に存在した訳ですが、薩摩藩に対しては大和言葉を使った口説を披露し、中国の使者に対しては琉歌を披露するという、二つの顔を持って接していたのだとか。
確かに薩摩の使者に上り口説見せれば、その道程は共有出来る物として喜ばれますね。
那覇港の近くには、薩摩藩の屋敷跡の案内板が有りました。薩摩藩在番奉行所跡、この地が薩摩藩の支配下に置かれていた琉球支配の拠点だったと言う痕跡の一つです。
スタートは守礼の門
上り口説は、「旅の出立ち観音堂」と首里観音堂から歌いだしますが、「上り口説を歩いた」一行は、宿からタクシーで首里城の入り口、守礼門前まで乗り付けました。
何故首里城?って言うと、琉球と言う国の代表として、これから江戸へ向かう訳ですから、首里城で口上を述べたりの挨拶やら色々有ったのでは?と思うのです。
まさか、観音堂10時集合ね、とか、各自那覇港集合!とか、上り口説が極々個人的な唄だったとか言うのは考えられないと思うのですが如何でしょう?江戸上りの一行が歩く絵巻があったような気がして探しましたが判りませんでした。
と言うことで、上り口説の出発は首里城からと勝手に決めて、守礼の門の前で記念撮影を済ませ、門ををくぐって登城する観光客を横目に、我々は逆方向に首里城 守礼の門を背にスタートして上り口説開始、どんどん下って行きます。
守礼の門を後にして直ぐ、代々の王家を祀った玉陵(たまうどぅん)がありますが、流石に代々の王家が眠ってる訳ですから、ここにも手を合わせご挨拶して出発したのでは?と勝手にコースに加えてうーとーとぅ。
玉陵から少し下ると、中山門跡の看板と説明碑、かつてこの場所には、守礼の門と同じ門があったそうです。何度も復活の声は上がってるものの、そらそうです、無理がありますよね。こんな場所に守礼の門と同じ門があると、首里城へ向かう観光バスが通れなくなるじゃないですか、、、
中山門は「下の綾門(あやじょう)」、守礼門は「上の綾門」と呼ばれ、二つの綾門を結ぶ道は、「綾門大道(あやじょううふみち)」と呼ばれていたそうです、美しい名前です。
旅の出立ち観音堂
一:旅の出立ち観音堂 先手観音伏せ拝で黄金尺取て立ち別る
下の綾門を後に、どんどん下って行くと、ようやく 旅の出立ち観音堂 へ到着です。
首里観音堂と自分などは覚えてましたが、正確には「慈眼院(じげんいん)」と言うそうで、観音堂と言う呼び方は、やっぱり上り口説のせいでもあるそうです、確かに、旅の出立ち観音堂と皆が歌いますからね。
建立は1618年、琉球国王が国の安全祈願を祈願する寺院として大事にされ、今日に至ると言う感じでしょうか。
また、首里十二支めぐりと言う、内地で言う七福神巡りみたいに「健康 開運 家内安全」祈願 みたいな風習が古くから首里にはあって、首里観音堂慈眼院には、十二支のうち子、丑・寅、辰・巳、午の守り本尊があります。
今度は、首里十二支めぐりと言うのをやってみたいね、と話しつつ「次来る時は」追加し、今の令和の時代でも、那覇の海が見渡せる絶景を満喫。高い建物もない当時は更に隅々まで見渡せたのでは無いかと思います。
流石に、唄に歌われるだけあって、お堂や境内ではライブなども頻繁に行われている様で、首里観音堂で聴く琉球古典音楽はまた格別だろうねと、さらに「次来る時は」が増えました。
行けば八幡 崇元寺
二:袖に降る露押し払ひ 大道松原歩みゆく 行けば八幡 崇元寺
首里観音堂慈眼院を後に、街の方へ下って行きます。途中、大道病院などと 大道 と言う地名が沢山出てくる様になるので、この辺りは歌詞にある 大道松原 があった付近だろうと思われます。
大道松原は、尚家の宗廟(そうびょう)だった円覚寺(えんかくじ)を修理するための材木として、この丘に松の苗一万株を植えさせ出来たそうで、かなりの規模の大きい松林だったのでしょう。
宗廟と言うのは、中国の風習で、氏族が先祖に対する祭祀を行う廟のこと、廟と言うのは、祖先の霊をまつる建物です、円覚寺は唄には出て来ないですが、王家 第二尚氏の菩提寺だったと言うことで、中国の影響が大きかったことが、やはりここでも伺えます。
もちろん、戦後に復旧されたものでしょうが、現在も姿を残す安里八幡宮、崇元寺は沖縄戦で破壊され、戦後は木造図書館が立てられ利用されていたものの、もはやその姿も無く、石門のみが修復され跡地が崇元寺公園となっています、崇元寺跡にある立派なガジュマルの木が印象的でした。
美栄地高橋うち渡て
三:美栄地高橋うち渡て 袖を連ねて諸人の 行くも帰るも中之橋
崇元寺から、今のゆいレールの美栄橋駅近辺までの道程は、当時は長虹堤(ちょうこうてい)と言う海中道路、海を埋め立てて造った堤防みたいな道を歩いたそうで、美栄橋の駅前には、わずかにその長虹堤の跡が残ってます。
案内板の後ろに有る道路の段差が判りますか?この一段高くなってる部分が、かつてそこにあった長虹堤の名残だと言うことです。
中之橋と言う橋が何処にあったのか?と言うのは、定かでは無いそうですが、実際に中之橋と言う橋があったりもするのでこの界隈だったのは間違いと言うことでしょう。
崇元寺の真ん前にあるバス停の次の停留所も中之橋でした。
後ほど、自らも古典音楽をやると言うタクシーの運転手さんと話た際には、今と昔は全くと言って良いぐらいに地形は変わってしまっているので、もはや特定は難しく「唄に残るだけと言う地名は沢山さー、でも、沖縄は歴史を唄に沢山残して、今も歌ってると言うのが凄いだろー」
確かに、唄の国だと納得です。
招く扇や三重城
四:沖の側まで親子兄弟 連れて別ゆる旅衣 袖と袖とに露涙
五:船のとも綱疾く解くと 舟子勇みて真帆引けば 風や真艫に午未
六:又も廻り逢ふ御縁とて 招く扇や三重城 残波岬も後に見て
四番の沖の側まで、と言う沖は、沖の寺と呼ばれた那覇の港を守っていた臨海寺だとの話、臨海寺まで親兄弟の見送りがあって、五番でいよいよ那覇の港から出港、港の先にある、三重城では家族も長い旅へ出る船を見送ったんじゃ無いでしょうか、ここからの眺めは「上り口説を歩いた」チームにとっても、胸に染みる物がありました。
明治時代に入り、臨海寺は垣花町に移され、さらに、沖縄戦で焼失した臨海寺は那覇の曙に場所を移し再建されているとのことなので、また「次来る時は」です、歩けば歩くほど、こうして行き先は増えて行きます。
ちょうどこの記事を書いている季節、5~6月頃に吹き始める南からの季節風に乗って沖縄を出発し、薩摩の山川港へ。夏の終わりに薩摩を出航して九州を時計回りに進み瀬戸内海へ入り、大坂で上陸。その後は陸路で江戸へ向かい、江戸では1~2ヶ月滞在したそう。
年が明けた頃に江戸を出発、再び大坂までは陸路、その後は船で薩摩入りして、冬の季節風に乗って帰ると言う一年がかりの旅だったと言うことです。
この江戸上りに参加することで、地位も名誉も手に入れることが出来たと言うことですが、期待と不安は推し量れない物が有ったことだと思います。
三重城跡も初めて訪れましたが、御願所として今も沢山の方が訪れる神聖な場所な様で、そこかしこに沖縄独特のお香の平御香(ひらうこー)の燃えカスがあるし、訪れたこの日も熱心に手を合わせる方がいらっしゃいました。
上り口説を歩いた感想
道中にはそこかしこで名物な飲食ももれなく楽しめるし、そこかしこで琉球古典◯◯研究所とか◯◯民謡教室、舞踊の教室に三線屋ー、そんな風景が、ここは唄の国の本場だと感じさせてくれます。
三線を手にする皆さんには、是非にとおすすめします。那覇界隈で一日たっぷりと唄の国に浸かることが出来ますから。
上り口説を三線で爪弾いたことの有る方は、もっと好きになると思うし、聞いたことしか無いって方も上り口説を演ってみたいって思うことでしょう。
江戸上りにしても口説にしても、知れば知るほど琉球言う国が見えてくる、ひいては三線がと言う話にも繋がり、壮大なテーマであることは間違いありません。
実際に自分自身は琉球使節の足跡を訪ね歩く旅を始めて早数年、そんな話もいつか紹介したいと思います。
最後に、上り口説歩きは一日がかりとなりますから、普段の運動不足を自覚する方はそれなりの覚悟が必要かも知れませんのでご注意を!さらに夜に民謡酒場にでも足を運べば、完璧な一日になるはずです。
残念ながら、所要時間を尋ねられると答えに窮します、距離だけで言うと6~7キロなはずなので、それほど大騒ぎする程の距離では無いでしょうけど、今回紹介してませんけが、途中でお茶飲んで、沖縄そば食べて、ビール飲んでぜんざい食べて、買い物して、令和の上り口説は、寄り道だらけなのです。
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